――90年代の熱狂を追いかけながら、2025年のAIを歩く
2025年の春。駅前のカフェで学生風の若者がスマホを覗き込み、ChatGPTにスケジュール調整を頼んでいる。
「明日の打ち合わせ、空いてる時間を教えて」とタップすると、数秒後には整った文章でメールの下書きが返ってきた。
隣の席では、別の学生がAIに画像生成を依頼し、SNSに投稿する準備をしている。
その光景を眺めながら、私はふと90年代を思い出す。あの頃も、同じような「未来の予感」が街を包んでいたのだ。
90年代のPC幻想
1990年代後半、量販店のパソコン売り場は人で溢れていた。
広告には「一家に一台パソコンを!」の文字。
店員は「これからはインターネットの時代です」と声を張り上げ、客たちは目を輝かせながら展示機を触っていた。
しかし実際に家庭に持ち帰ると、現実は違った。
モデムをつなぎ、ピーガガガと電子音を聞きながら待つ。
ページをタップしてもなかなか開かず、やっと表示されたのは文字と荒い画像だけ。それでも多くの人が「PCさえあれば未来は何でもできる」と信じていた。
ワープロ専用機はいらなくなり、表計算は自動化。個人サイトが次々に誕生し、インターネットは少しずつ生活を変え始めていた。
あの時代の空気は、いまのAIブームと驚くほど似ている。
現代のAI幻想
再びカフェに目を向ける。
2025年の若者たちは、PCではなくスマホを片手にAIを操っている。
文章生成、画像編集、動画要約、そしてスケジュール調整。ChatGPTやGeminiはカレンダーやメールにアクセスし、予定の確認と返信文作成を一括で済ませてしまう。
ほんの数年前まで人間が時間をかけてやるしかなかったことが、いまやタップひとつで完了する。
「AIがあれば何でもできる」――そんな声が、至るところで聞こえる。
まるで90年代の「PCがあれば何でもできる」という幻想を、そのままコピーしてきたかのようだ。
もちろん現実には、AIは誤りも生むし、もっともらしい嘘を返すこともある。
万能の魔法ではなく、あくまで道具。けれど、道具に過剰な期待を託すのは人間の性なのだろう。
技術の共通点と相違点
PCやインターネットは「情報の拡張」をもたらした。一方、生成AIは「思考や表現の拡張」を可能にしている。
似ているのは、どちらも「魔法の杖」として語られたこと。異なるのは、AIが人間の知性そのものに踏み込もうとしている点だ。
90年代のパソコン売り場に群がる人々と、2025年のカフェでAIを操る若者たち。
その風景は違えど、根底にあるのは同じ問いだ。「この新しい技術で、自分は何ができるのか?」
終わりに
パソコンもインターネットも、最初は幻想に包まれながら、やがて生活に欠かせない「当たり前の道具」になった。生成AIもまた同じ道をたどるだろう。
未来を決めるのは技術そのものではない。それをどう使うかを選び取る、私たち人間自身だ。
この文章は未来予測ではない。ただ、2025年のある日、カフェで見た風景から生まれた日記である。
けれど、こうした断片が、のちに時代の空気を伝える手がかりになるかもしれない。
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